江戸時代から明治・大正にかけての日本漢詩文、および日中比較文学(小説・和歌・俳諧・狂歌・狂詩狂文・川柳・演劇・絵画・中国文学)、および人物を研究し、新事実を闡明することをめざす「江戸風雅」の会の情報をお知らせするブログです
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■『江戸風雅』15号が完成しました。会員の皆様にはすでに発送済みです。以下のようなラインナップとなっております。この機会にぜひお手にとって見てください。

 李小龍氏の「羅大経の生卒年及び免官の原因試論」の要旨は、氏自身が次のように要約されている。
 『鶴林玉露』の著書である羅大経の生涯には不明な所が多い。その父に従って楊誠斎に謁した時、及び『鶴林玉露』の「日本国僧」の条の記載に拠れば、その生年は淳煕九年(一一八二)頃と推測できる。また、『鶴林玉露』丙篇の自序、「山静日長」の条及びその他の文献資料に拠って総合的に判断すれば、淳祐十二年(一二五二)春に弾劾されて官を罷めたことが知られる。そして、その原因は致仕と関っており、その事がまた淳煕九年に生まれたという推測を補い証する。さらに『鶴林玉露』甲・乙・丙の三編の成立状況から、丙編完成後久しからざる時期、およそ宝祐元年(一二五三)に没したろうと知られるのである。
 李氏は古典小説の研究者と聞くが、これは『鶴林玉露』を筆記小説と捉えて、その著者の生卒年などに新見を加えた論考である。中で「日本国僧」の記事を利用して、生年を新たに推定したことは、中国の研究者が日本の学術誌に執筆する場合に相応しい研究方法と言えよう。勿論、中国語で書かれたものを徳田が翻訳したのであるが、誤説や分かりにくい部分があることを恐れる。わざわざ本誌に玉稿を賜った李氏に感謝の意を表するものである。

 徳田武「大田南畝と唐医胡兆新」は、長崎に赴任した南畝が清国から渡来した医生胡兆新とどのような交渉を持ったか、彼をどのような人物と観ていたかなどに就いて、年次を追って資料を集め、考察したものである。その結果、南畝が唐土の文化に敬意を払い、それを体現している文人に会いたがっていた様相を明らかにすることが出来た、と思う。

 徳田武「解縉の春画詩」は、南畝の長崎滞在時の雑記である『瓊浦雑綴』上に見える、元の趙孟頫が絵を描き、明の解縉が跋を書いたとされている春画詩二十首に就いて、趙孟頫や解縉の関りを疑い、唐土の文人の儀作と見、さらにそれらの解釈を初めて発表したものである。由来、この種の作品は上品に解釈していては面白くなく、即物的に端的に解釈するのを良しとするので、筆者もせいぜいこうした態度に倣った。

 徳田武「広瀬旭荘の『観瀑図誌』に就いて」は、伊賀名張の秘境たる赤目の諸瀑を鎌田梁州が闡幽せんとして豪華な本造りが為された『観瀑図誌』に広瀬旭荘の五絶が十二首掲載されているが、それは『広瀬旭荘全集』にも未収の新資料であることを述べ、その成立経緯を調査し、解釈を行い、その結果、旭荘が現地に行かないで、梁州が提示した説明文や絵図に拠って作詩した、と結論したものである。

 徳田武「広瀬旭荘と吉田松陰」は、まず旭荘の日記『日間瑣事備忘』に見える吉田松陰関係の記事に注目し、旭荘が松陰をどのように観ていたかを考察した。次に、松陰が旭荘の長篇古詩「桑維乾鉄硯詩」を愛読した逸話を取り上げ、愛読した理由を分析して、それに松陰が抱懐するのと同様な攘夷思想がほの見えている点を指摘し、政治的意見を表明することを極力憚っていた旭荘がこの場合には珍しくも一端を漏らしている、と述べて、旭荘の思想に新しい視点を齎したものである。

 小財陽平「『五岳上人画帖』翻刻と注解」は、平野五岳の自筆画帖(明治十五年成)を紹介したもの。新出資料となるこの画帖は見開き十四面(墨付き)からなり、そのうち十二面に画が描かれている。本稿でyはすべての画を掲載するとともに、画賛には注解を施した。画賛には閑適の情を述べたものだけでなく、社会風刺の作も備わり、五岳の豊かな詩画世界を堪能することができる。

 田部知季「正岡子規の俳句と漢詩雑考」は、子規における俳句と漢詩の関わりようを、「写生」や「叙景」以外の観点から再考するもの。子規の評論「漢詩と俳句」(明治三十年)に力点を置いてきた先行研究に対し、本論前半では明治二十八年春の子規句を取り上げる。この時期には漢詩句を詞書に持つ句が多く詠まれているが、子規は翻案に際して原詩の内容を巧みに取り込みつつ、俳句と漢詩の差異を意識的に演出していたと考えられる。また、論の後半では「蕪村句集講義」での子規の発言に注目する。漢詩文に基づく蕪村句の評釈においても、子規は「写生」や「叙景」といった視点には拘泥しておらず、原詩に「俳諧的」な要素を付加した句にも肯定的な評価を与えている。

 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『風俗金魚伝』翻刻と影印(一):上編四冊」は、次のような内容である。
 今回から、馬琴の長篇合巻『風俗金魚伝』を、三回に分けて紹介する。本作は、文政十二年から天保三年にかけて、馬喰町の書肆森屋治兵衛から刊行された。この合巻の翻刻は、すでに続帝国文庫『校訂傾城水滸伝』(明治三十三年、博文館)に収録されているが、同書は後修本に基づいており、しかも肝心の挿画を掲出しない。本誌では早印本に基づいて全図を紹介し、遺漏なきを期すこととした。今回紹介する『風俗金魚伝』上編は、難波と長州赤間、そして播州赤穂を舞台とし、原作『通俗金翹伝』の第十四回半ばまでが、ほぼ忠実に翻案されている。

徳田武

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■14号の内容を紹介します。

徳田武「江戸小説と中国小説」は、研究史的な展望と個人的な回想を織り込みながら日本近世小説と中国小説の関りを一般人士向けに紹介し、通史としてみたい、という狙いのもとに書き始めてみたもので、まず「長恨歌伝」を取り上げたものである。かような回顧的なものを書くのは老化現象の一つだと承知はしているが、また読書習慣を失って行く当今の人々を振り向かせ、忘れ去られてゆく事実を伝えておくための便法として採用したスタイルである。

 徳田武・長田和也の「『解人頤広集雋』訳解」は、清の乾隆二十六年、胡澹庵が撰し、銭慎斎が増訂した滑稽詩文の集の一部に就いて、和刻本を参照しつつ訓読・現代語訳・解説を施したものである。その理由は、該書が漢文笑話集として余り取り上げておられないからである。また、俗語を交えたその文章は、一般の日本人には解しにくいかと思うからである。その面白みが那辺に在るのか把握するのも一苦労を要するが、畢竟するに対句の付け合いの妙味である。
 
 史瑞雪「明治期の馬琴文学と世態風俗/実社会論についての一考察」の要旨
は、次のようなものである。

坪内逍遥は『小説神髄』において、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と主張した上、「人情」の面から曲亭馬琴が描いた八犬士ないし勧懲的馬琴文学を批判したが、馬琴文学の「世態風俗」にはあまり触れなかった。しかし、写実が新文学の課題になっていくと共に、馬琴文学と世態風俗或は実社会との関係も新作家たちに注目された。例えば、民友社に関係づけられた内田魯庵、山路愛山、嵯峨の屋おむろ、及び国民文学論を提唱した高山樗牛、馬琴に親しんだ幸田露伴といった明治新文学者は、馬琴の非写実が批判され、写実が盛んになった時期に、間接的であれ直接的であれ、馬琴作中の実社会要素を見出した。逍遥を含めて、魯庵と愛山は馬琴作品の非写実を否定的に捉え、作中人物の時代差を其時代小説の欠点として指摘したかったのだが、却って、馬琴の時代小説が当時の世態風俗になっていたことを証明した。一方、嵯峨の屋を経て、樗牛と露伴は馬琴作品と実社会との関係について、写実の他、或いは「国民性」、或いは「交叉線」を以て、社会と文学との関りの新方向を模索した。新文学発展に対する模索の姿勢を示した、とも言える。

 同じく史瑞雪「明治期「文学史」中の曲亭馬琴像」の要旨は、次のようなもの。

 近代文学の幕開けとされた坪内逍遥の『小説神髄』は曲亭馬琴の「勧善懲悪」的功利主義を否定するところから写実主義を提唱したのだと定説化されていたが、馬琴研究の展開につれて、明治時代における馬琴受容についても別に論じられるようになった。それによると、明治期における馬琴受容は複雑で、特に逍遥の馬琴把握に「揺らぎ」があることが明らかにされてきたが、しかしそれまでの文学史ではどのようなプロセスで逍遥の「かたよった評価」を拡大して「定着」して来たのかはまだ不明である。三上参次・高津鍬三郎著『日本文学史』や、芳賀矢一、藤岡作太郎、岩城準太郎等が著わした、明治時代に出版された「日本」の「文学史」の分析を通して、明治 三十年代中期を境にして、「文学史」中の馬琴像が変わってくることがわかる。このような変化はまず「文学史」における『小説神髄』に対する解釈と関係があると思われる。また、同時代の文学思潮と関係があると推測できる。つまり、自然主義の胎動と発生につれて、「文学史」中の馬琴像も否定的になってきたのである。

 柯明「原采蘋の『采蘋詩集』における植物描写から見る遊歴の感覚」の要旨は、次の通り。

 日本では平安時代に女流文学の最盛期を迎えたが、漢学から深い影響を受けて漢詩捜索が最高峰に達した江戸時代においては、漢詩集を残した優れた女性漢詩人が輩出し、各地を遊歴しながら創作していた姿も見られた。「男装の詩人」として知られる原采蘋も、その典型である。彼女の感情はいかに変動しつつ風景・風物を通じて表現されているのだろうか。彼女はいかに自分の生活と思いを漢詩の世界に描いているのだろうか。本稿では従来の研究を踏まえながら、『采蘋詩集』における植物の詩語に焦点を当てて分析することで、彼女が風物描写を通じて自身の遊歴生活をどのように詠じたのか、その詩作にはどのような特徴があるのかについて分析を試みた。

 森隆夫「『星巌甲集』における旭荘題辭」の要旨は、次の通り。
  『星巌甲集』における旭荘の「題辞」は七言古詩の形式による論詩詩であるが、他三者の序文と並置されたためか、論詩詩としての検討がなされてこなかった。本稿では、あらためて論詩詩として見直し、注解を附すとともに、制作の背景を考察し、内容の検討を行った。検討の論旨として、㊀旭荘の論詩詩は百二十韻に及ぶ「論詩」をはじめとして、管見で二十三首にのぼり、旭荘の生涯にわたる関心事であったこと。㊁論詩詩の制作は、兄淡窓の論詩詩の影響に端を発し、これを敷衍・展開する形で始まったこと。㊂日本詩史における中国詩史の影響を考慮しつつ、「題辞」においては日本詩史の将来について展望を持とうとしている、ということ。㊃その展望の橋頭保として星巌詩を高く評価したこと。㊄星巌の先輩たる頼山陽に対する批判と思われる句が見られること。という諸点が挙げられる。

 徳田武「塩谷宕陰年譜稿」は、塩谷時敏の『宕陰先生年譜』が漢文で記されているので、先ずそれを訳し、次に手元に在る資料によってそれを増補し、さらに『宕陰存稿』に収録されている漢文を通覧して、成立年次が知られるものは、それを確定し、その要旨をまとめたものである。その結果、アヘン戦争に関する文章が多いことは本文にも述べた通りだが、史書編纂、なかんづく徳川史の作製に就いての執念があったこと、仕官した後も昌平黌再入学を再三希望していることを知った。史書編纂への執念には若い時に師事した頼山陽の影響があるであろう。また、昌平黌再入学の要望は、彼自身はいろいろ大義名分を付しているが、要するに昌平黌の教官になりたかったからではないか、と思われる。そうした見通しを確実にするためにも、更なる補訂を目指して行きたい。

 田部知季「正岡子規の漢詩文的連想――「句合の月」を読みながら――」は、子規の俳句における漢詩文の面影を読み解くもの。特に、空想に基づく句作の過程を綴った随筆「句合の月」(明三一・一一・一〇『ほとゝぎす』)を取り上げている。「句合の月」では『水滸伝』の趣向も登場するが、従来同作に通底する漢詩文的な発想については注目されてこなかった。本論では、子規自筆漢詩抜書帳『随録詩集』などにも触れながら、「句合の月」末部の句「見送るや酔のさめたる舟の月」の背後にある発想の契機を明らかにした。

 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『傾城水滸伝』第十三編 翻刻と影印」は、百二十回本『水滸伝』のうち、第五十五回の末尾から、第五十七回の半ば過ぎに至る部分の翻刻と影印である。双鞭芍薬(原作の呼延灼)の攻撃を受けた江鎮泊の烈婦たちは、除夜(徐寧)を仲間に引き入れ、鎌鎗を用いた戦術によって、連環馬を撃破した。芍薬は信濃に逃走し、賊の立て籠るあけろ山を攻撃する。賊寨の頭領友代(李忠)は、金剛山の妙達(魯智深)・竹世(武松)らに援軍を求めた。馬琴の執筆部分はここで中断しており、本稿では続帝国文庫本に添えられた猪波暁花の「傾城水滸伝拾遺物語」を読みやすい形に改め、付録として掲載する。

 今号では四人の新人が、掲載紙の継続年数や性格などの瑣末的な事に拘らずに、積極的に論考を寄せてくれたのは喜ばしい事である。論考の生産能力が乏しい者ほど掲載紙に拘るものだが、若くて気力旺盛、どんどん書ける者は、あちこちに書きなぐるぐらいの勢いが欲しい。取り分け、留学生たる二人が日本人もなかなか取り組まないようなテーマを扱っていることは、我々にも刺激を与えてくれる。今後の研鑽を期待したい。

徳田 武


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■13号がいよいよ刊行
お待たせいたしました。『江戸風雅』13号がまもなく完成いたします。
例によって、編集後記を転載いたします。

○『江戸風雅』第十三号編集後記
 本号には六編の論文・エッセイ・注釈・影印翻刻を掲載した。
徳田武「洒落本『列仙伝』は上田秋成作なり」は、従来、若き秋成が俳諧に遊んでいることを明示する資料としてのみ利用されて来た洒落本『列仙伝』(先賢卜子夓(か)作)が実は秋成自身によって著わされた作品であろう、という仮説を提唱するものである。そのように考えられる理由は、一つは、本書の内容と秋成晩年の随筆『胆大小心録』とのそれが共通する、という事である。具体的には、俳人松木淡々の強引な門人獲得法、及び、遊客の吝嗇が遊里衰退の原因である、とする説が共通するのである。次に、本書の内容と秋成の後続作とのモデルが一致する、という事である。即ち、顔を傷つけて膏薬を貼っている「伊津や雪」が、柳里から竹の画の幟をもらう、とある『列仙伝』の記載は、『諸道聞耳世間猿』巻三の一「器量は見るに煩悩の雨舎り」で、額に膏薬を貼った尼(正慶尼。木津屋こ万)と柳屋権兵衛(雅名は里江。柳里恭)との葛藤が描かれることの原材料と見られる、という事である。かく本書を秋成作と見ると、本書に『雨月物語」の板元となる野村長兵衛の先代が主要人物として登場している理由も納得できるのである。このように本論は、文学史の一行を変えることを迫るものになろう、と自画自賛する次第である。
 徳田武「秋成の出生秘話と中井履軒・頼春水」は、春水の『霞関掌録』の、大和の庄屋の娘を実母とする秋成が大坂の娼家で.養育されたという情報がどこから得られたか、という問題を扱ったもの。徳田は『霞関掌録』に見られる春水の旅程を検討して、中井履軒との会談の記事に着目し、それは履軒から聞いたものであろう、という説を提唱した。そのように考えられる理由は、春水と履軒が若い時分から老齢に到るまで親密に付き合っている事、秋成と履軒が懐徳堂での出会い以来、後年まで交渉があった事などである。特に秋成と懐徳堂との関係は、従来あまり言及されていないので、そこに筆を費やした。前論と並んで、資料が少なく、あまり知られていない秋成の若年時に迫ろうとする論考である。
 纐纈くりの「鈴木重三先生の思い出」は、神田神保町の和本・浮世絵専門の古書肆大屋書房の四代目である女史のエッセイである。近時、古書業界にも若い女性が進出し、中には和本や唐本についてなかなか深い知識を示す人も見受けるが、くりさんは、その代表格である。くりさんは、ここで書いているように、故鈴木重三氏の薫陶を受け、特に合巻や読本の版本の絵に就いて初刷り本と後刷り本との相違などを教授された。鈴木氏はまた、書房の二階に閉じ籠って、書房が所蔵する『八犬伝』諸版本の絵の相違などを研究し、くりさんにも教えた由で、今の研究者や顧客たちが到底享受できない贅沢な日々を過ごされたという。もっとも私も、『山東京伝全集』の打ち合わせの会では、打ち合わせよりも寧ろもっぱら氏の挿絵に関する薀蓄を聞かされたし、詩と共編した『馬琴中編読本集成』の解題執筆の際にも氏の書誌学的知識に大いに啓発されたのであるが。今後もくりさんが取って置きの秘話を書いてくれるよう期待して已まない。
 徳田武・神田正行・小財陽平「広瀬旭荘の林外・青村宛て書簡」は、日田市の広瀬資料館に所蔵される旭荘書簡の内、息子の林外と淡窓の養子青村に宛てた物を翻字し、更に年時考証を施した上で、時間順に配列したもので、長寿吉・小野精一編『広瀬淡窓旭荘書簡集』のそれを改訂したものである。科研費研究の一環として行ったので、研究担当者全員で作業分担したが、特に翻字と考証は徳田が行ったので、責任は徳田に在る。この結果、旭荘が幼い孝之助(林外)らの子供に暖かい愛情を注いでいる事が知られるのである。なお、作業分担の打ち分けは、序言の末に記してある。
 徳田武・長田和也・藤富史花・松葉友惟「文天祥「正気歌」の変容と特徴(二)ー吉田松陰・広瀬武夫・川田瑞穂に於けるー」は、前号同題の注解を承けるもの。前回同様、四人でたびたび読み合わせ、原稿を作製したもので、やはり文責は徳田にある。今の若い人がこの三人の「正気歌」のようなものに関心を向ける事は、殆ど無いだろうが、近世から近代に到る漢詩史の内の一つの系譜であることは厳然たる事実なので、これがきっかけとなって、この方面に関心が向けられるようになれば幸甚である。それぞれの担当は、各解題に記してある。
 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『傾城水滸伝』第十二編 翻刻と影印」では、本編の物語は、原作の第五十五回(通俗本中編・巻二十六)に至る。節柴(原作の柴進に相当)を救出すべく、足羽綾重(高廉)に戦いを挑んだ烈婦たちは、綾重の妖術に苦戦するが、帰還した蓍(めどき)(公孫勝)の加勢によってこれを撃破する。その後、綾重の親族である亀菊(高〓)の命を受けた芍薬(呼延灼)は、連環馬を用いて江鎮泊を攻撃した。その粗暴な振る舞いゆえに、公孫勝の師である羅真人や、旅の同行者戴宗らに苦しめられる黒旋風李逵の滑稽は、本編における力寿の身の上にも、ほぼ『水滸伝』の通りに翻案されている。これらの失敗譚は、原作を知らない婦幼たちにも喜ばれたことであろう



なお、今回の日本近世文学会は、われら明治大学で開催されます。ぜひお立ち寄りください。
■12号出来
またまた遅ればせながら、12号編集後記を転載いたします。

○『江戸風雅』第十二号編集後記
 本号には七つの論文・エッセイ・翻刻影印を載せた。
 徳田武・山形彩美「蕪村の仮題「四季山水図」に対する疑問」は、『与謝蕪村―翔けめぐる創意』(miho museum)一四四・四五頁に掲載されている「四季山水図」の内、特に秋と冬の図の絵と賛とを取り上げ、両者の即応のありようを検討し、その結果、「秋」「冬」図は必ずしも秋と冬とを描いてはいない、とりわけ「冬」図は冬を描いたものとは到底認められない、従って「四季山水図」と題するのは不適当で、「山水四幅対」とでも称しておくのが妥当だ、と論じたもの。本論は、共同執筆の形を取っているが、どのようにして論文が作製されたのか、その過程は後記に示しておいた。
 徳田武「『南総里見八犬伝』解説」は、『注釈 南総里見八犬伝』(仮題。勉誠出版刊行予定)第一巻(第一回から第十回まで)の解説として執筆したものである。従って、第一回から第十回までが『八犬伝』全体の内でどのような役割を果たしているのか、という点に絞って、その位置づけを論じたものである。結論のみを言うならば、その部分は八犬士出現の「襯染」である、換言すれば、準備部分である、この準備部分が『水滸伝』に比べると異様に長いのが『八犬伝』の特徴である、というもの。ただ、この書の刊行は、注釈は出来ているのだが、校正などに問題があって、難航している。早期の刊行を庶幾している。
 郭穎「古の風雅偲びて江戸漢詩」は、中国の研究者が江戸漢詩や広瀬旭荘を研究するようになった経緯や、研究の間の思い出などを語ったエッセイである。郭穎女史は、厦門大学の日語系副教授であり、このたび創価大学に研究員として来られた由。『東瀛詩選』に就いて論考を物されていることは、ネットで瞥見したことがあるが、実際にはどのような方か知らなかった。それが、最近、神田神保町の漢籍を扱う古書肆で偶然に出会って、急遽、このエッセイを書いてもらう事になったのである。才媛であられることは、題名を発句調で付けている所や、古詩を作っている点に容易に窺える。日本人の漢詩に見られる「和臭」を、近頃では「和秀」と称して、むしろその特性を積極的に評価するという傾向が中国の研究者に存する、という話を、これも近ごろ国文学研究資料館のパーテイで初めて会った陳捷女史(これまた才媛)に窺って、嬉しく思っていたのだが、何とその語は、郭穎女史によって提唱されたのだ、という。江戸人や日本人の漢詩漢文が、こうして中国の妙齢の才媛によって研究されるようになったのは、非常に喜ばしいことだ。
 徳田武「広瀬旭荘と鈴木春山」(一)は、次の論文に扱う『在臆話記』に鈴木春山の名が出て来るので、嘗て読んだ『日間瑣事備忘』の春山伝の面白さを思い出し、それらを利用することにより、旭荘と春山の交友を明らかにしようとしたもの。だが、『備忘』の春山に関する記載は多く、それを読み解くのには意外と時間がかかって、今回は完結するまでに至らなかった。次号での終了を期している。これを書くために筆者は、白山の寂円寺に在る春山の墓を掃苔したが、ほぼ三十年前にもそこに来た事があるのを思い出し、感無量であった。
 徳田武「『在臆話記』の広瀬旭荘記事ー『日間瑣事備忘』の顕彰―」は、岡鹿門が『話記』に記した旭荘関係の情報を取り上げ、それが『備忘』の成立状況を善く説明し、その価値を早くも顕彰していることを解説した。また、『話記』の記載を『備忘』のそれと突き合わせることによって、『話記』の誤りを指摘する。『話記』に記された旭荘の詩を読み解いて、文久元年当時の旭荘の心境を明かすことをも試みる。更には『話記』の河野鉄兜と旭荘の交友の記事を補訂しもした。
 徳田武・長田和也・藤富史花・松葉友惟「文天祥の正気歌の変容と特徴―藤田東湖・国分青厓に於けるー」は、元の文天祥の「正気歌」が日本の藤田東湖と国分青厓によってどのように受容され、再創作されたか、そして東湖と青厓の作にはどのような特色があるのか、そうした変容の原因は何であるのかを明らかにすべく、文天祥・東湖・青厓の作品に注と解釈を施したものである。文天祥と東湖の作には、それぞれ先行業績があるが、青厓のそれには無く、初めての試みである。誰がどの部分を担当したかは、本文を参照されたい。勿論、徳田が全体に眼を通したが、なお、遺漏もあるであろう。
 徳田武・神田正行「『傾城水滸伝』第十一編 翻刻と影印」は、原作『水滸伝』の第四十九回から第五十二回(通俗本では中編巻二十三・二十四)を翻案した部分の翻刻と影印である。上帙四巻は、幸目・狩倉姉妹(原作の解珍・解宝に相当)の投獄から語り起こされ、照鷽(てりうそ。楽和に相当)に糾合された烈婦たちによる姉妹救出を経て、彼女らを加えた江鎮泊軍による祝部(はふりべ)庄討伐に至る。下帙では祝部陥落ののち、朱良井(朱仝)、次いで節柴(柴進)の厄難が語られる。


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■11号目次
たいへん遅ればせながら、11号編集後記を転載いたします。

○『江戸風雅』第十一号編集後記
 本号の発行は、通常のそれよりも二か月ほど遅れたが、それは偏えに私が明治大学を定年退職したことに因る。退職前の一か月、即ち三月は研究室の本の整理に追われた。『古事類苑』や『国史大辞典』等の浩瀚な洋装本は、ネットで見られるようになり、古書価もすっかり無くなった。第一、家に置けるスペースも無い。高価で買った物を破棄するしかない。その為には感傷などは取り払わねばならない。逆にネットで見られない物は、コピーなどしなければならない。原装の方が見やすいが、これまたスペースの関係で、そんな事は言ってられないのだ。
 それでも家に持ち帰らなければならない本が多くある。結構大量なので、それらを一時保管する場所が必要だ。こうした手配で四月は潰れる。かくて、この二か月ほどは原稿も書けない。五月になってから、何とか仕事に取り掛かれるようになり、ようやく二点物することが出来た。そんな訳で遅れざるを得なくなり、読者の方々には御迷惑を掛ける次第になった。御宥恕を願うものである。

 徳田武「趙甌北詩訳注」は、清の有名な学者にして詩人である趙翼の七絶四十数首を取り上げ、簡単な注を添え、現代語訳を施したものである。当初は、和刻本『甌北詩選』(文政十年刊)下巻に収まる七絶をすべて現代語訳する積りで始めたが、それには時間を要するので、取り敢えず出来ただけを収めた。完結を目指している。なぜ筆者が中国文学研究者もあまり扱わない、この人物の詩を読もうと思ったかというと、旭荘に影響を与えているふしがあるからであるが、何よりも先ずその詩が性霊派の作品として面白いからである。その面白さの分析は、後日を期したい。
 小財陽平「頼山陽と六如――茶山詩をめぐって――」は、茶山の詩集に見える、山陽・六如の評語について考察したもの。山陽がしばしば六如を批判する評語を書き入れ、対抗意識を燃やしていた様態を広島県立歴史博物館所蔵『黄葉夕陽村舎詩草稿』にもとづいて整理する。山陽は六如を批判しながらも、六如の指摘を踏まえた上で、詩集の編纂・校訂を行っているが、そうした経緯はすべて削除されており、版本からはうかがい知られない。山陽・六如の評語を検討することで、茶山を含む三者の人間関係や詩風の相違、また版本の成立事情を明らかにする。
  徳田武「広瀬旭荘と筑井崑陽」は、『梅墩詩鈔』第四編の末尾に長い詩を寄せている筑井清という人物が如何なる者であるのか、旭荘とどのような交渉があって詩を寄せるようになったのか、なぜ旭荘は彼の詩を自分の詩集に掲載したのか、という諸問題に就いて、その詩や『日間瑣事備忘』などを資料として考証したものである。また、締切間際になって筑井の自筆稿本である『筑井昆陽先生稿本』をも閲覧できたので、末尾にその成果を簡単に付記した。その結果、詩壇に知られていないこの人物の経歴の一部や詩才の一面などに照明を当てることが出来た、と思う。
 松葉友惟「七律「筆一枝」にみられる国分青厓の文学観」は、明治から昭和前期にかけて生きた漢詩人である、国分青厓についての論である。今回は新聞『日本』に連載された、時事批評の漢詩のうち、明治三十二年に小説について述べた「筆一枝」という詩を取り上げ、この詩の解釈と意義付けとを試みた。その結果、当時に流行していた、世態人情を写し取ることに主眼を置いた小説には否定的であり、東海散士『佳人之奇遇』などの政治小説を理想とするような、時流に乗っていたとは言い難い青厓の小説観が抽出された。
 神田正行「『傾城水滸伝』第十編翻刻と影印」は、上帙(文政十三年刊)と下帙(天保二年刊)を扱う。物語は、原作『水滸伝』の第四十六回(通俗本中編・巻二十二)に当たる。ここで馬琴は、楊雄・石秀による潘巧雲・裴如海(海闍梨)殺しを、夏楊・岩ひばによる遣水・波海殺しとして翻案する。そして、人物関係に些少の改変を加えて、単純な男女逆転とそれに伴う不都合とを回避している。上帙は、早潮(原作の時遷)の鶏卵窃盗をもって結ばれる。この小波瀾を契機として、下帙(天保二年刊)では江鎮泊軍と祝部一家との抗争が勃発し、その戦闘の最中にも、複数の烈婦が三世姫の配下に加わることとなる。

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